067248 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 9

『――今日のニュース――
☆ 我らがアイドル、バッキーとヨーコ先輩がデート?!
   私たちの憧れの的、バッキーとヨーコ先輩が、中通のバー『M』でいいムードでデートしていたことがわかりました。(豊岡支店、Rちゃんの目撃情報)
   バッキーがヨーコ先輩に惚れていることは、周知の事実。また、この次の異動で本店へ栄転確実のバッキーは、いよいよヨーコ先輩にリーチをかけるのか?
   この二人、目が離せません! 何か情報、目撃談などがありましたら、ぜひ私めまでメールを送ってくださいませ。
☆ なみへー課長、家庭は円満だった
   先日夫婦喧嘩が伝えられた、中央支店のなみへー課長ですが、昨日ご家族でHホテルのランチバイキングに訪れたことがわかりました。(北支店、Kちゃんの目撃情報)
   ……なんだったんでしょうね、こないだの離婚騒ぎは。って、騒いだのは私でしたね。ははは、失礼しました。
   ランチバイキング、奥さんと子供たちが何回もおかわりに席を立つ中、なみへー課長はコーヒーを飲みながら温かい目でご家族を見守っていたそうです。
家庭円満が何よりですね。お幸せに。
 ……』

 私は、携帯をパタンと閉じて、メルマガを見るのをやめた。
 同期の沙織が作っているメルマガは不定期に届く。内容が、行員関係のスキャンダル中心だから、ネタがなければ発行されないのだ。昨日、今日と二日続けて発行されるのは珍しい。
 もともとは同期の仲のいい人だけに配信されていたのだが、休憩時間の話題として結構好評で、今では後輩やパートさんにも配信していると聞く。そして、そのメルマガを楽しんでいる人たちは、自分の持っている情報も沙織に提供し、新たなネタ元となっていくのだ。
 今日は二件とも単なる目撃談だったが、昨日のはちょっと複雑だった。
 なみへーこと氏家課長の家のある地域は、数年前、銀行が不良債権処理のために所有していたグラウンドを宅地として売りに出したものだった。その土地は行員に格安の値段で販売されたので、向こう三軒両隣すべて銀行員またはOBであるという、自宅なのにまるで社宅のような住環境になってしまっている。
 で、氏家課長の家の隣は北支店の安田課長の家なのだが、安田課長は社内婚で奥さんも銀行OGなのである。
 で、その安田課長の奥さんが、氏家課長の奥さんが朝荷物を抱えて「ちょっと実家に行ってきます」(その実家は市内なのだが)と挨拶されたのを、銀行員時代の同期で仲良しだった中央支店でパート勤務している小菅さんに電話で話し、それを小菅さんが沙織にご注進して緊急にメルマガが発行されたというわけなのだ。
 そのメルマガを見たときは、少しどきりとした。……もしかしたら、もしかしたら私のせいなのではないか、と。罪悪感で胸がふさがり、伝票の数字を打ち間違えるような単純ミスを三件もしてしまった。もちろん課長からはひどく叱責されたが、私はうなだれるばかりだった。私なんか、怒られて当然の人間なのだから。
 食欲もなく、昨日一日でずいぶんやつれてしまったような気がする。もちろん日記をつける気力もなく、二日連続サボってしまった。こんなこと、小学二年生の冬休みの宿題で絵日記をつけ始めて以来、初めてのことだ。
 悩みに悩んだ末、今朝は課長にすべてを告白する覚悟でいた。しかし、今日は銀行は休みである。課長に謝るためには電話をしなければならない。しかし、この電話が発端なのだ。それを思うと、受話器をとって課長の家の番号を押すのが怖い……。
 そうやって逡巡しているときに携帯が鳴り、このメルマガが届いたのだ。
 よかった。まず思ったのは、そのことだった。いくら嫌な課長でも、私のせいで離婚なんてことになったら、どうやってお詫びすればいいのかわからない。沙織の言い草ではないが、家庭は円満なのが何よりだ。
 だが、奇妙なことに私は寂しさも感じていた。結局私の電話は気にも留められなかったのだろう。奥さんが実家に帰ったというのも、何か用事でもあったのに違いない。
 結局私のすることなど、誰にも、なんの影響を与えることもできないのだ。

 夜、思い切って出かけることにした。
 彼にふられて時間もできたことだし、久々にきちんと小説を書きたくなった。甘い恋愛小説。モデルは、手近なところだが蓉子先輩と榊原さんで。
 蓉子先輩は、小説のヒロインにふさわしい人だ。美人で、仕事もできて、気配りも上手で――何か欠点を設定しないと、人間的魅力に欠けるだろうか? 例えば生立ちが複雑でトラウマを抱えている、みたいな。
 榊原さんには、そういう陰の設定は不要だ。わかりやすい、単純な熱血漢。今時流行るようなキャラではないが、榊原さんをモデルにするなら、それしかないだろう。
 そういえば、以前休みの日に榊原さんと映画館でばったり会ったことがあった。榊原さんは小学生くらいの女の子と一緒だった。その女の子、私の彼氏を紹介するまですごい目で私のことを睨んでいたっけ。従妹だといっていたけれど、あれは恋をしている女の目だった。榊原さんを取られまいと、他の女に敵意をむき出しにしている……。
 いっそ、榊原さんは子持ちのバツイチ男という設定にしてみようか? 少女時代にトラウマをもつ蓉子先輩と、父親を独占したい少女との、困惑、苦悩、葛藤、悶絶――いかん、恋愛小説からずれている。
 とりあえず、メルマガに書いてあった、バー『M』に行ってみよう。何か雰囲気を掴むことができるかもしれない。それに――それに、もしかしたら新しい出会いというものがあるかもしれない。
 彼のことは、完全に吹っ切れていた。もしも彼が、正直に新しい彼女のことを話してくれていたら、私は未練を残していたかもしれない。しかし、彼は嘘をついた。私は、嘘だけは許すことができない。
 結婚話を出す前に、ああいう人だったということがわかってよかったのだ、結局。
それが、「すっぱいぶどう」の屁理屈とはわかっていても、私はそうやって自分を納得させることができる。

 バー『M』は、小さな店だった。五人ほど座れるカウンター席と、テーブル席が二つだけ。渋い初老のマスターが、一人で切り盛りしている。飲み会の三次会などで親しい同僚と来たことは何度かあるが、一人で来るのは初めてだった。
 カウンターに座り、ジントニックをオーダーすると、程なく一人の客が来た。おそらく三十代の、少々無精ひげが生えてはいるが、哀愁を帯びた雰囲気で彫の深い顔立ちのいい男だった。
彼は、私やマスターの視線を避けるように、こちらに背を向けて奥のテーブル席に座った。オーダーを取りにいったマスターが、ハーパーのボトルとアイスペールとグラスを持って彼の元へ引き返す。しかし彼は、それ以上マスターの手を煩わせるつもりはないらしく、自分で勝手に飲み始めた。
私は、カウンターに戻ってきたマスターに、今度はギムレットを頼んだ。
 木製のドアが開き、また誰かがやってきた。しかし、その客は店内にはいってくる気配もなく、戸口のところでマスターを呼び、何か低い声で熱心に語りかけている。
 好奇心に駆られてドアのほうを見ると、そこにいたのは涎の垂れそうなぐらい美形の若い男だった。彼は、何かを一生懸命に頼んでいるらしいのだが、マスターは渋い顔でそれを断っていた。美形はせつなげに目を伏せた。長い睫毛が、彼の滑らかな肌に影を落とす。その頬も、よく見るとほんのりと桜色に染まっている。
「……どうしてもダメなんですか。それじゃ、俺は、俺は――」
 怪しい気配に、目が釘付けになる。あの美形は小説のモデルになり得る! ……最も、同性の恋愛小説は、私の専門外なのだが。
 だが、彼の次の言葉に、私は愕然とした。
「――俺、踊ります!」
 そう言って、彼は頭の上に両手をひらひらとかざすと、怪しげな節で歌いながらぎこちなく踊りだした。
 マスターが、慌てて両手で彼の手を押さえて踊りを止めさせた。店の前であんなことをされたら、営業妨害もいいところだろう。マスターが低い声でぼそぼそと囁くと、美形の男の顔が、ぱあっと輝くように明るくなった。マスターからお札をもらうと、いそいそと足元に置いてあった瓶を渡し、意気揚々と帰っていった。
「大変でしたね」
 やれやれという表情で戻ってきたマスターに、私は声をかけた。あの瓶でわかったのだ。美形の男が、悪徳霊感商法で名高い宗教団体の信者だということが。
「まったく。何不自由なさそうな若い人が、どうしてあんなものにハマるんでしょうね」
 マスターは苦笑いしながら、瓶を客から見えないカウンターの内側に隠した。
「……もしかすると、失恋のショックかもしれませんね。純情そうな人だったから」
 一途に愛した人を失い、彼女を忘れるために俗世のすべてを捨てる、というのは、なかなかロマンチックなネタになりそうな気がした。しかし、出家先が悪徳宗教団体というのはいただけない。
 いっそ、こういうのはどうだろう。虫も殺さぬような顔をした若い男が、おのれの魅力を武器に女性信者やマスコミを手玉に取り、やがて教祖に上りつめる――いかん、また恋愛小説からずれているじゃないの。
 いきなり首を振りだした私を、マスターが不思議そうに見ていた。私は、慌てて笑ってごまかした。
「私もね、失恋しちゃったの」
 言いながら、背筋がむずむずした。落ち着いた雰囲気の、ジャズの流れるバーの止まり木で、一人グラスを傾けて失恋の渇きを癒す女――ベタだ。ベタ過ぎる。
 マスターは、ありきたりな慰めの言葉を言ってくれたあと、テーブルの男に呼ばれてカウンターを離れた。
 私は、残っていたギムレットを一息に飲んだ。これで頬が赤くても、ベタなシチュエーションに照れているわけじゃなく、酔いがまわったせいだと言い訳できるだろう。自分自身に。
 カウンターに戻ってきたマスターが、私の前に、またギムレットを置いた。
「私、まだ頼んでいませんけど……」
「あのお客様からですよ」
 マスターは、テーブル席のほうを目で示しながら、にっこりと笑って言った。
 私がテーブル席を見ると、あの哀愁の無精ひげ男が、微笑みながら「おごらせてください」と言っていた。
――今日は、ジンベースのカクテルを制覇するつもりで、次はトム・コリンズを注文する予定だったんだけど……。
 いや、そんな事はどうでもいい。このベタベタな展開は、どうだろう。直球の恋愛小説、ではないか?



© Rakuten Group, Inc.